5/14雑記 一湊の歴史をまとめる

雑記

こんにちは1です。5/16〜5/19まで人生を変える3泊4日の山旅 屋久島を縦走することにしました。

今日は今回の拠点、漁港一湊の歴史を調べてみました。旅先で訪れる街の歴史を知っていると多くの発見があり。旅がより充実します。

屋久島一湊の歴史まとめ

一湊(いっそう)は、屋久島の北部に位置し、島内でも有数の歴史と伝統を持つ漁師町です。以下歴史の概要をまとめます。


古くからの集落と港町としての発展

  • 一湊は、屋久島の中央にそびえる山々と海に囲まれたわずかな平地に築かれた集落のひとつで、最盛期には人口が3,000人を超え、島最大の港を有する漁師町として発展しました13
  • 漁業や荷役の拠点として屋久島の表玄関の役割を果たし、漁協での取引や漁船の出入りが盛んだった時代もありました3

漁業と産業の変遷

  • 江戸時代にはカツオ漁が盛んで、カツオ節の製造が主要産業でした。やがてトビウオ漁、明治38年(1905年頃)以降はサバ漁が中心となり、「屋久サバ」やサバ節の生産で名を馳せました1
  • 一湊を中心にサバ漁が栄え、漁業の町としての伝統が今も受け継がれています1

教育と地域社会の発展

  • 明治11年(1878年)には一湊小学校が創立され、地域の教育拠点となりました。昭和・平成期には校舎の新築や統合、各種施設の整備が進められ、地域社会の発展を支えてきました3

歴史的事件・人物

  • 1862年には西郷隆盛が島流しの途中で一湊に立ち寄り、滞在したことが記念された西郷隆盛上陸の碑が今もあります2

戦時中の出来事

  • 太平洋戦争末期、1945年4月18日には米軍機による空襲で一湊集落に17人の犠牲者が出るなど、戦争の被害も受けました。この空襲被害は近年まで十分に記録されていませんでしたが、地元寺院の願船寺の「過去帳」や住民の証言によって掘り起こされ、慰霊祭が行われています45
  • 一湊は合計10回の空襲を受けた記録もあり、当時は測候所やサバ節工場が並び、軍事的な拠点とみなされていた可能性も指摘されています45

現代の一湊

  • 現在も漁業と伝統を守りつつ、観光や地域コミュニティの活動が続いています。歴史ある建物や伝統行事も残り、地域の人々によってその歴史が語り継がれています15

まとめ

一湊は、屋久島の玄関口として栄えた歴史を持ち、漁業を中心に発展してきた集落です。カツオからサバへの漁業の変遷、教育・社会インフラの整備、戦時中の空襲被害、西郷隆盛の滞在など、様々な歴史的出来事を経て、今も伝統と記憶を大切に守り続けています。

今日は今回の拠点、漁港一湊の歴史を調べました。

最後まで読んで頂きありがとうございました!

コメント

タイトルとURLをコピーしました